第一話
胃の気
東洋医学が治療において最も重点をおいていることは、「胃の気」であります。
「胃の気」とは、食事から得ることができる代謝物質や活動エネルギーを消化・吸収し、身体に必要な気や血に変える機能を意味しています。
重病の患者さんを診るときは、「胃の気」を注意深く、慎重にみる必要があります。
胃の気がしっかりしている状態であれば、一見、ひどくつらいように見える症状でも治療を行うことで思いのほか早く治癒することが良くあります。
その一方で、どれほどの鍼の名人であっても治療ができないのが、胃の気が衰亡してしまった状態の人です。
胃の気が消失することは、人の寿命が尽きることを意味するのです。
「胃の気」の有無を調べることは経験を必要とします。
私の20年に及ぶ治療人生において、「胃の気」と真剣に向き合ったことが数回あります。
自分の力量を超える患者さんを治療することを「逆証」と呼ぶのですが、「患者さんを鍼で殺してしまうかもしれない」と思った初めての治療経験の話です。
東洋医学を学び始めて4年目のことです。
ほとんど寝たきりの状態の80代のおばあちゃんでしたが、ご紹介の内容では、「腰が痛くて動くことができないので治療して欲しい」とのことでした。
当時の私は、ようやく東洋医学で鍼治療ができるようになり、いろんな病気を治療したくて仕方がありませんでした。
緊張しながら往診に訪れた私でしたが、横たわるおばあちゃんを見たとき、すぐさま治療すると命にかかわる危険性を感じました。
振り絞るような声でなんとか腰の痛みを説明してくださるのですが、聞き取るのがやっとで、細かいことまでは質問ができませんでした。
長時間の会話は、ご本人の体力を消耗するため短く切り上げることにしました。
食はかなり細くなっていて、ほとんど食事を取られていません。
さらに、この年の夏は猛暑続きで、この日は9月の末ではありましたが、まだまだ残暑が厳しかったように記憶しています。
季節の変わり目には体調を崩す高齢者が多く、おばあちゃんにもその影響が出てる可能性を感じていました。
身体を動かすと腰の痛みがひどくなるので、仰向けの状態のみで四診を行うしかありません。
問診もほとんど取れない状態ですから、頼りになるのは切診です。
舌を出す力がなかったので、脈診だけをたよりに治療するしかありません。
ところがこの脈が今までに経験したことがない状態で、未熟な私に手に負えるものでないことはすぐにわかりました。
痛みを訴えるおばあちゃんを前にして、何もせずに帰ることができませんでした。
思案した挙句、鍼を皮膚から10センチのところからかざして効果をみることにしました。
横で見ておられた娘さんは、何をしているのかわからなかったかも知れませんが、神経を研ぎ澄まして挑んだ私にできる
精一杯の治療でした。
舌も脈もわからない、経験も知識も未熟な私が取った治療は、痛みを和らげることを目的としたものでした。
幸い、皮膚から離れたところからかざす鍼が効果があり、おばあちゃんの腰の痛みは少し軽くなりました。
苦悶の表情が和らいで、穏やかになってもらえたことを覚えています。
「少し楽になりましたか?」という問いかけに、頷いてもらえた時に、やっと安堵できました。
それから3週間の間に5回ほど治療を行いましたが、10月の中旬に様態が急変し、病院に入院されました。
しばらくしてご家族の方から電話があり、多臓器不全で亡くなったことをお聞きしました。
鍼を刺さなかった理由は、鍼を刺すということは少なからず気をもらすことなるからです。
胃の気が衰亡し、少しの気ももらすことが許されない状況では、一本の鍼で命を奪うことすらあるのです。
直感と脈診に従って、鍼をかざすことを選択したことは、貴重な経験として私の記憶に今でも残っています。