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家康と養生 Ⅱ

小島 秀輝

江戸幕府も3代目将軍、家康の孫・家光の時代となった頃、伊達政宗は健在であり、幕府を支え、家光を補佐しました。

家康は元和2年(1616年)の4月に75歳の生涯を閉じるのですが、その直前の2月末、謀反の噂があった伊達政宗が見舞いに駆け付けます。

他の戦国武将よりも年下だった政宗に、病床の家康は最後の懐柔を試みました。

この時の家康の態度は、老醜をさらすことなく、威厳と情誼(じょうぎ)にあふれ、さすがの政宗も落涙したといいます。

天下の夢を諦めた政宗は、家康の21回忌まで日光に参詣し、寛永13年(1636年)の5月、腹部の張満する積のために68年の生涯を終えました。

政宗が若い頃、好んで食べた食事があります。

豆ごはん、イワシの塩焼き、里芋と大根の味噌汁だそうです。

家康と同じように、簡素な戦国式の食事をしていたことが分かります。

ところが、天下が平定すると大変な食通へと変わり、自ら包丁を振るうほどになります。

朝、目が覚めると2時間かけて朝食の献立を考えます。

当時は一日二食だったので、朝食の時間が遅く、献立を考える時間はたっぷりありました。

伊達家の資料にある、ある朝のメニューを見てみると、

焼いた赤貝、ふくさ汁、ごはん、ヒバリの照り焼き、鮭のなれ寿司、大根の味噌漬け、コノワタ、栗と里芋

ヒバリは鳥のヒバリ、ふくさは味噌汁のこと。

味噌は、仙台味噌と京都の合わせ味噌を使うように指示するほどのこだわり。

味噌汁の具は、キジ肉と豆腐、青菜です。

コノワタはナマコの腸で、これを肴に朝から酒を飲んだのかもしれません。

栗と里芋は和菓子にして、今でいうデザートを楽しんだのでしょう。

ある日、仙台藩の江戸屋敷に将軍家光を招待し、全国各地の美味、珍味を取り揃えました。

南蛮渡来の白砂糖で作った菓子まで添えた豪華な献立を考案し、自ら味見をして、お膳を運ぶほどの「おもてなし」だったと伝えられています。

そんな折、政宗に長年付き従った重臣が、政宗が若き頃に好んで食べた、豆ごはん、イワシの塩焼き、里芋と大根の味噌汁を作ってもてなします。

政宗は食べはしたものの、城に帰ってから「粗末な食事が出てきたと」と別の家臣に語ったそうで、若かりし日を懐かしむことはありませんでした。


太平の世になり、食べる目的が変わって行きました。

家康と大久保彦左衛門、井伊直政と伊達政宗の違いを見ると、食べて體(からだ)を作る時代から、食べて楽しむ時代へと「食の文化」が変化したことがわかります。

質実剛健の時代が終焉し、食の変化が新たな病気の温床と増加を招くことになります。

 

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