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徳川家康と養生 Ⅰ

小島 秀輝
家康と養生

1600年9月、天下分け目とも言われる関ヶ原の合戦に勝利した家康が、1603年、江戸に新しい幕府を開き、初代将軍となったことで、戦国時代は終焉しました。

それから約250年後の嘉永(1848年~1855年)、徳川将軍は十三代目、家定が治世の頃、時代は再び不穏な空気に包まれることになります。

嘉永6年(1853年)6月アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に、7月ロシアの使節プチャーチンが長崎に来航して、両国ともに日本の開国を要求します。

続く安政元年(1854年)、日本はアメリカ、イギリス、ロシアと、翌年オランダと和親条約を調印し、215年間続いた鎖国政策が終焉します。

さらに、安政(1855年から1860年)、十四代将軍家茂の頃、日本各地で大地震が相次いで発生し、江戸では大老井伊直弼による安政の大獄、その意趣返しとなる桜田門外の変が起こりました。

そんな幕末の江戸の町に、ある日、奇妙な狂歌が出回るようになります。

「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座して食らふは徳の川」

信長と秀吉が苦労して天下を平定したのに、最後においしいところをもらい受けたのが家康だったという意味です。

作者は不明で、黒船来航、地震の頻発、大老の死など、太平の世が乱れて、傾きかけた江戸幕府を批判したのがこの狂歌だと思われます。

幕末の江戸では、家康のことをこのように思う人が多くいたのかもしれません。

しかし300年も続く幕府体制を築き上げた家康は、健康で長生きすることこそが天下取りの鍵と考え、食生活を含む生活習慣に細心の注意を払った人でした。

しかも家康が天下を治めるまでには大変な苦労がありました。

幼少期、西の織田、東の今川に挟まれて、父・松平広忠が治める三河はどちらの国に占領されてもおかしくない状況でした。

そのため両国に人質にだされ、血で血を洗う骨肉の争いを身に染みて体験しています。

「信じるに足るには自分しかない、自分の體(からだ)だけだ」という思いを強く抱くようになったことが想像できます。

こうした彼の生活史が、慎重さ、臆病さ、自己愛、現実的で内向的性格を形成します。

信長や秀吉は自分よりも年上、三方ヶ原の合戦で大敗を喫した武田信玄はさらに大先輩の武将でした。

これら先輩武将の生涯を見て、生をまっとうしてこそ、自分の理想をまっとうできると肝に銘じたことでしょう。

家康が「健康法」を心がけるようになるのは、このような背景と動機があったからだと考えられます。

「長生きも芸の内」と言いますが、不老長寿のための摂生は、家康が天下を治めるための重要な戦略のひとつだったのです。

その一つが「食」を慎むこと。

天下の大御所になってからも、家康は「麦飯と焼ミソ」という節食を貫きました。

彼に仕えた大久保彦左衛門は「天下のご意見番」として有名ですが、戦国の世の苦難を家康とともに乗り越え、江戸幕府成立に力を尽くしました。

彼は、家康亡き太平の世にあっても、麦の粥、焼いたイワシ、野菜のたっぷり入った豆味噌の味噌汁という三河以来の質素な食事を貫き、79歳まで生きることができました。

家康と彦左衛門の二人の生き方は、まさに「質実剛健」と言えるものでした。

彼らと比べると、のちに大名になった、彦左衛門の戦友・井伊直政は病気になります。

その際、彦左衛門は見舞いに行き、小さな鰹節を差し出しました。

驚く直政に、彦左衛門はこのように語り掛けます。

「病気になったのは苦しい時代を忘れ、贅沢をしているからだ。

 私は戦の非常食である鰹節を常に持ち歩いている。

 贅沢は慎むべきだ。」と。

家康の死後、古い時代は終わりを告げ、質実剛健な生き方が変わろうとしていたのです。

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