鬼の霍乱 捌 「鬼」
鬼と言えば、二つの角にヒョウ柄のパンツで有名です。
この鬼の姿も東洋医学の基本的思想である「易学」に関係があります。
二つの角、それは「牛」の角
ヒョウ柄のパンツは、「虎」の皮
どちらも十二支であることに注目です。
易学では、牛を一時、虎を二時の方角とし、合わせて「艮」と書いて「うしとら」の方角としています。
艮の方角は東北にあたり、平安京の御所にとっては鬼門とされた方角です。
鬼には頑丈で強靭というイメージがありますが、霍乱の際に使う場合は、良からぬ病(邪気)を運んでくることに関係していると見た方が良いのではないでしょうか。
もう一つ、平安時代の鬼と言えば菅原道真公が有名です。
藤原道長の曽祖父にあたる忠平の兄弟が時平です。
醍醐天皇は、左大臣に藤原時平を、右大臣に菅原道真に任じました。
しかし、当時の政権争いと学派の争いに巻き込まれた菅原道真は、藤原時平の中傷によって左遷されてしまいます。
「あめのした逃るる人のなければや着てし濡れ衣干るよしもなき」
濡れ衣を着せられて無実を訴える菅原道真の無念が拾遺和歌集に収められています。
失意の道真は、左遷から2年後の903年、太宰府で亡くなります。
彼の死後、平安京では不可解な死が相次ぎます。
908年に藤原菅根が落雷にあって死亡、909年には藤原時平が39歳の若さで亡くなります。
それ以後も、醍醐天皇の家族や重臣がたくさん死傷することが続き、天皇までも菅原道真の怨霊による祟りではないかと考えるようになりました。
そんな醍醐天皇は、930年、御所の清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫と右中弁の平希世が亡くなったことに大いに衝撃を受けて体調を崩し、落雷の三か月後に崩御します。
道真の死の影響は、洪水、長雨、干ばつ、伝染病などにも広がり、このような変異が毎年のように続くようになりました。
民の間でも、「道真が怨霊となり、祟りをなしているのではないか」と噂されました。
このような理由で、菅原道真は「雷神ともいえる鬼」となり、平安時代の人々に恐れられたのです。
「瘧」のところでもご紹介したのですが、平安時代の医疾令の中には、内科や外科、鍼灸や按摩と並んで、呪術も含まれていました。
当時の人々は、傷寒などの伝染病が鬼の仕業であるという認識を強く持っていたことがうかがえます。
陰陽道を極めた阿倍晴明が、藤原道長のために術を駆使して働いた逸話や伝説がいろいろと残っています。
晴明は道長のそばにいつもついていたといわれるほど親密な関係であり、出世して太政大臣になった道長の権力を傘に、呪術師としても大いなる力を発揮したことでしょう。
当時の貴族にとっても、瘧や痢、傷寒などが鬼のなせる業という認識があったことが歴史や陰陽師の存在からわかります。
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