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小島 秀輝

鬼と霍乱


「鬼の霍乱」シリーズの最後は、「鬼と霍乱」という内容で締めくくりたいと思います。

東洋医学も陰陽道も、実は中国で誕生した「易学」と関係があります。

鬼は陰陽道、霍乱は東洋医学、この組み合わせには深い意味があるように思います。


平安時代、怨霊思想はピークを迎えます。

そもそも「物の怪」とは中国伝来の思想であり、「史記」によれば、「物の怪は天変地異をひきおこす妖怪のような存在で、鬼神と同じように声も形もない」とあります。

それが日本に伝わり、物の怪が病気の原因とされるようになります。

怨霊が物の怪となり、怨恨のある人を病気にさせるということなのです。

古くは奈良時代、785年の延暦4年、藤原種継暗殺事件が起こり、皇太子早良(さわら)親王が事件の関係者として淡路へと島流しの刑を受けました。

その移送中、早良親王は自らの不運を嘆き、悲嘆の内に船中で亡くなります。

その後、朝廷に凶事が続き、陰陽師が占ったところ、早良親王の怨霊であることがわかり、祟道(すどう)天皇を諡(おくりな)して、霊魂を鎮めました。

諡とは、神道における戒名のことで、これによって早良親王による凶事が治まりました。

この事件以降、国家に凶事や不祥事があるたび、民は怨霊のせいだと噂するようになります。

時を経て平安中期、903年の延喜3年、菅原道真の死後、怨霊や物の怪の怪はますます真実味を帯びていき、民の怨霊や物の怪への恐怖心は、現代人の想像をはるかに超えています。

ほとんどの病気は物の怪、つまり「鬼」のせいだと信じられていたのです。


一方、当時の医療では、霍乱は傷寒の一種と診断されており、傷寒論の中でも最も深い病位である「厥陰病」に位置付けられています。

「厥」とは、「つきる」という意味があり、「厥陰」は陰の気が尽きて、仮の熱(陽の気)が生じる状態です。

仮の熱とは、ろうそくの炎が消える瞬間に一瞬煌めくのに似て、生命の火の乏しさの表れと言えます。

鍼灸の経絡では、厥陰の臓器は「肝」と「心包」であり、五行では「木」に属します。

厥陰肝経、厥陰心包経であり、その裏は、少陽胆経、少陽三焦経となります。

易学では、八卦(乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤)の内、「震」「巽」です。

震は「雷」、巽は「風」を表し、まさに風神雷神の「鬼」を想像させます。

傷寒のような風邪の病気の類は、艮の方角、つまり鬼門から都へと入ってくるもの。

丑の月は旧暦の12月、虎の月は旧暦の1月であり、現代の暦に置き換えると、節分の2月に相当します。

旧暦で新年は春であり、「木」の気が盛んになる時期です。

春は自然界の気の活動が盛んになり、激しく気が上昇する様を「厥逆」と呼びます。

方角と暦の両方は、東洋医学の「木」との関係も深いことがわかります。


季節的な病である傷寒と、平安時代の人々の鬼へ畏怖の念は、必然の結びだったことになります。


物の怪が歴史書から消えるのは、武家社会の到来を待たなければなりません。

王侯貴族が権謀術数をめぐらせた社会から、武力で決着をつける社会へと変わる必要があったのです。


901年の昌泰4年、菅原道真は妻と子を都に残して、太宰府へと旅立ちます。


東風(こち)ふかばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ


旅立ちの直前、庭の梅の木に寄せて道真が詠んだ歌ですが、この日は2月1日だったと記録があります。

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