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小島 秀輝

2025年は乙巳(きのとみ)

乙(きのと)は未だ発展途上の状態を意味し、巳は万物が繁昌の極みとなって成長をやめた様子を示します。

「巳」の字は、「已(や)む」ありさまを表現し、「すでに」「もはや」「尽く」「止む」などの意味を持つ漢字。

陰陽五行では、「巳」は「火」の「陰」です。

自然界では、「木」の気の時間に成長してきた草木が、「火」の気の時間に入ることで実りの準備を始めます。

その動きは目立つことがなく、静かに進んでいきます。

そして「火」の「陽」である次の「午」にバトンタッチすることで、実りへの動きが表だってはっきりしてくるとされています。



古代中国では、「蛇」は人知を超えた知恵を持っているのではないかと思われていました。

蛇の特徴である、足も無いのに素早く移動すること、伸縮自在の身体であらゆる物に巻き付くとこ、脱皮を繰り返して成長することなどから、蛇は「災いをもたらす」とか、「魔除けの力を持つ」と言われました。

しかし中国の人は、日本人のように蛇を神格化することはありませんでした。


縄文時代、日本人は、水の神や魔除けの神として蛇を祀っていました。

長野県岡谷市の榎垣外遺跡(えのきがいと)から有孔鍔付土器(ゆうこうつばつき)が出土。

壺形の土器の上部に、周りに蛇が巻き付いた人間の装飾があります。

邪悪なものを退ける魔除けとされたと想像されます。

製造されたのが、縄文早期、今から7000~6000年前だそうです。

長野県富士見町の井戸尻遺跡では、頭上に魔除けの蛇をのせた土偶が出土。

これは縄文時代中期、今から5000~4000年前の製造です。

どちらも縄文時代の蛇信仰を示す遺物として評価されています。


縄文時代から原始的農耕を行っていたことが明らかになっていますが、紀元前1000年頃、弥生時代が始まる頃になると、日本でも水稲耕作が始まります。

水田を開発して、効率よく大量の稲を育てる農耕によって、人々は安定して食料が確保できるようになり、人口200人程度の集落に生活するようになりました。

それに伴い、開拓した先祖への感謝の気持ちを「祖霊信仰」という新たな形で、祭祀を行うようになっていきす。

この祖霊信仰は、先祖の霊魂を、水の恵みをもたらす自分たちの土地の守り神として祀るもので、縄文人の「大自然の力で生かされている」という「精霊崇拝」と異なり、弥生人は「先祖のはたらきによって豊かな生活ができる」という発想へと移行したことを意味します。

そして弥生時代中期(紀元前100年頃)には、人口2000人程度の小国に規模が拡大。

山や川で区分された「盆地世界」では、一人の首長を立てて、「国」を造りました。

そのような小国を守る神を「国魂(くにたま)」と呼び、それは祖霊神と雨の恵みをもたらす農耕神を兼ねていました。

日本各地にある古代から続く日本の神社の多くは、国魂信仰の神を祀るものです。


弥生時代、稲籾を保管するため、木造の高床式倉庫を造りました。

それでも、鼠は柱を上って米蔵を荒らすため、これを退治する蛇を穀物神の神使とする発想に至ります。

その影響もあり、日本各地には蛇の姿をした神を祀る、国魂の神の系譜がある神社が数多くあります。

古代王家の里、三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)は、蛇の姿の神とされています。

三輪山の蛇神信仰の流れをくむ奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社では、現在も蛇が祀られています。

大神神社の境内に、「巳の神杉」があります。

巳の神杉は、大物主神の化身である百蛇の神が棲むと言われていて、いつも参拝者が蛇の好物である卵を供えています。

三輪山の蛇神信仰の起源は、中国から伝来した十二支よりも古いです。

それでも大神神社では、十二支の呼称を縁起の良いものと考えて、神域の蛇を「巳さま」と呼ぶようになりました。


陰陽五行説の十二支は、本来、時間の性質を知るための目安でした。

そして十二支の動物が、中国では経験科学上の概念を象徴するものだったのに対し、日本では神社信仰と結びついて神格化されていきました。

初詣に訪れる神社がどのような動物を祀っているのかを調べてみるのも一興ではないでしょうか。


645年、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅ぼした「乙巳の変」がおこりました。

「2025の乙巳」はどんな年になるのでしょうか。

みなさまにとって、幸多き、健やかな年になることをお祈り申し上げます。

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