脊髄梗塞の症例 (後編)
- 7月10日
- 読了時間: 5分

― 排尿・排便機能の回復と東洋医学的考察 ―
治療を中断してから約4年。
再び患者さんから連絡をいただいたのは、新型コロナウイルスの流行によって社会が大きく変化した頃でした。
それまで継続していた訪問リハビリは縮小され、自宅で過ごす時間が増加。身体機能の維持が難しくなっていたのです。
発症からすでに10年以上。
治療を終了した時点でも左下肢の麻痺は残っていましたが、再診時にはさらに動きが乏しくなっていました。
膝は曲がらない。
足首も動かない。
足の指も反応しない。
左足はほぼ完全麻痺に近い状態でした。
排泄機能にも課題が残っていました。
排便は依然として週1回。
ラキセベロンは15滴以上必要です。
排尿についても尿取りパッドが欠かせません。
朝起きるとパッドが重たくなるほど尿が漏れており、尿意もありませんでした。
そこで再開後の目標を二つに定めました。
一つは排便機能の正常化。
もう一つは左下肢麻痺の改善です。
一般的に考えれば、発症から10年以上経過した状態で大きな改善を期待することは容易ではありません。
しかし患者さんには、
「もう少し良くなりたい」
という思いが残っていました。
治療再開から約1年。
まず変化が現れたのは左膝でした。
それまで全く曲がらなかった膝関節が少しずつ屈曲できるようになったのです。
さらに半年後。
今度は足首が動き始めます。
そして皮膚感覚にも変化が現れました。
触られていることが分かる。
長い年月失われていた感覚が戻り始めたのです。
さらに半年が経過すると、足の指にも反応が現れます。
最初に動いたのは母趾でした。
ほんのわずかな動きでしたが、その後は他の指にも順番に反応が現れ始めました。
長年沈黙していた足が、再び目を覚ますような経過でした。
ただし、すべてが順調だったわけではありません。
麻痺から長い年月が経過したことで、足底アーチは大きく崩れていました。
足底の筋肉も萎縮し、地面をしっかり捉える能力が低下しています。
現在も左足でのつま先立ちを目標としていますが、地面を蹴る動作は十分には獲得できていません。
一方で、排便機能には予想以上の変化が現れました。
左足の麻痺が改善し始めた頃から、以前のような激しい下痢が起こらなくなったのです。
そこで私は患者さんに提案しました。
週1回だった排便を週2回へ変更してみませんか。
患者さんは長年、
「薬が効き過ぎて外出できなくなるのが怖い」
という不安を抱えていました。
しかし身体への負担を考えると、週2回の排便の方が自然です。
結果は予想以上でした。
排便回数を増やしても便失禁は一度も起こりませんでした。
便はやや軟らかくなる程度。
生活の質はむしろ向上しました。
さらに15滴以上必要だったラキセベロンも、10滴以下まで減らすことができました。
排尿機能の改善はさらに印象的でした。
治療再開後から徐々に尿漏れが減少し、2年ほど経過した頃には、一番小さな尿取りパッドで十分な状態になっていました。
そして3年目。
患者さんから興味深い報告がありました。
「お腹が張る感じが分かる」
発症以来失われていた尿意が戻り始めていたのです。
もちろん若い頃のような感覚ではありません。
しかし身体が、
「そろそろトイレへ行きたい」
と教えてくれるようになったのです。
その感覚に従ってトイレへ行けば自然に排尿できる。
夜間の尿漏れもほとんどなくなりました。
これは膀胱機能が大きく改善したことを意味しています。
長年失われていた機能が、少しずつ戻ってきたのです。
ただ、患者さんはすでに80代を迎えています。
最近では加齢による影響も無視できなくなってきました。
以前は自然に左膝を持ち上げながら歩けていましたが、現在は意識しないと膝を曲げられないことがあります。
また、地面を蹴る力の弱さも残っています。
私は数年前から自宅でできる簡単なリハビリをお伝えしていますが、継続は容易ではありません。
高齢者の機能回復には、身体だけでなく「続ける意志」も必要だからです。
患者さんはかつて、
「もう一度ゴルフがしたい」
と強く願っていました。
そして実際に、その願いを叶えられるところまで回復されています。
しかし人は目標を達成すると、その先の努力を続けることが難しくなることがあります。
現在も日常生活は十分に送れています。
しかしご自宅には段差のある場所も多く、転倒予防という意味でも、今後は足趾や足底の筋力をさらに高めていく必要があると感じています。
東洋医学から見た今回の症例
今回の症例を振り返ると、非常に興味深い経過がみられました。
最初に改善したのは感覚でした。
続いて膝関節。
次に足関節。
さらに足趾。
そして排尿・排便機能へと変化が現れています。
東洋医学では、身体を単なる筋肉や神経の集合体としては捉えません。
気血が巡り、五臓六腑が働き、それぞれが互いに支え合うことで生命活動が維持されていると考えます。
脊髄梗塞によって失われた機能も、決して一瞬で戻ったわけではありません。
感覚が戻る。
動きが戻る。
排泄機能が戻る。
その過程は、まるで春になって草木が芽吹くような緩やかな変化でした。
特に印象的だったのは、尿意の回復です。
「お腹が張る感じが分かる」
その言葉を聞いた時、身体が再び自らの状態を伝え始めたことを感じました。
歩くことも大切です。
しかし人間らしく生きるという意味では、
食べること。
眠ること。
排泄すること。
これらもまた同じくらい重要です。
今回の症例は、東洋医学が脊髄梗塞を治したという話ではありません。
身体には年単位で変化し続ける力がある。
そしてその力を引き出すためには、局所だけではなく身体全体を診る視点が必要である。
そのことを改めて教えてくれた症例でした。
身体は、失われた機能を取り戻そうと今日も静かに働き続けています。
私たちの役割は、その働きを信じ、支えていくことなのかもしれません。



コメント