松尾芭蕉の俳句
都会に住んでいると、生活する人が密集していることから常に雑音があります。
人が眠る時間帯になっても同じで、都会は24時間眠らないと呼ばれるほどです。
バイクや車が走る音、近所の人の話し声、工場の機械が動く音など、全く音がしない、無音の状態になることはないのではないでしょうか。
一方、田舎に住んでいたらどうでしょうか。
田んぼや畑、裏に山があるようなところでは、川の音、虫の声、鳥のさえずり、風の吹く音など都会では感じることができない様々な音が聞こえます。
都会に住んでいる人が訪れると、普段聞こえる雑音が消失し、自然の息吹の音を感じることができます。
私なら自然の音に静けさを感じ、心地よくなります。
虫の音が少しうるさく感じることもありますが、それで睡眠が妨げられるように感じることはありません。
ところが、街中を離れて避暑地に旅行へ行くと、寝つきが悪くなるとおっしゃる方がいます。
都会の雑音は気にならないのですが、田舎の自然の音がものすごく気になり、うるさくて眠れないそうです。
むしろ車の走る音や商店街を歩く人の話し声が聞こえるほうが落ち着くそうです。
これを聞いて、同じ音を聞いていても、静けさを感じたり、騒音と感じたりするものだということに気づきました。
このことから、「静けさ」とはどんなものかを伝えることは、簡単そうなことから、難しいことになりました。
そこで思い出したのが、音楽の時間に使用していた音楽室のことです。
外部からの音が遮断され、また内部の音が外へ漏れ出ないように工夫されています。
音源が無ければ、音を感じることはありません。
このような無響室に居ると、当然音がないので静かですが、静けさを感じるかというと感じない気がします。
むしろ、息の詰まるような感じを覚えたり、自分鼓動が聞こえて落ち着かなくなることもあるのではないでしょうか。
このように、無音の状態が必ずしも静けさとなりません。
それでは、静けさとはどういったものなのでしょうか。
古くから私たち日本人は、聞こえる音に非常に敏感でした。
江戸時代の俳諧師、松尾芭蕉は、紀行文「奥の細道」で数々の俳句を詠んでいます。
その中の一つに、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」があります。
夏の時期に蝉がうるさく鳴く寺で、芭蕉は「静けさ」を感じとっています。
蝉がうるさく最中に、どのようにしたら静かさを感じることができるのでしょうか。
芭蕉は、「閑さや」と上句に「や」という切れ字を用いて詠嘆を表現していることから、しみじみと「静けさ」を本気で感じていることが伺えます。
騒音とも言える蝉の声を聞いている芭蕉に、静寂を感じるきっかけを与えたものは、山寺の岩です。
騒音という「陽」と静寂という「陰」、対比する二つを結びつけたものは岩という「陰」のものだったと理解できます。
騒音の「陽」の中にある岩の「陰」に意識が集中したときに、静寂という「陰」を感じたのでしょう。
これこそが、陰陽論の優れた法則のひとつ、「陰中の陽、陽中の陰」をあらわしています。
無音の中に静寂はなく、雑音の中に静寂がある。
この関係性こそが、陰陽の互根であり、それを結びつける考え方が「陰中の陽、陽中の陰
」ということです。
陰の中に陽があることで、陽との結びつきを可能とし、さらに自らの陰を引き立たすことができます。