涙の理由
江戸時代の「癒」
江戸時代の蘭学者・杉田玄白は、臨床医としても名医だったそうです。
そんな彼は、自分の著書・「養生七不可」の中で次のように言っています。
大抵の病は、薬を服さずとも、自然の力によりて、病は平癒するものなり。
すべて病を治するは自然にして、薬は其力の足らざる所を助くるものなり。
西洋の人は自然は体中の一大良医にして、薬は其補佐なりとも得けり。
現代のように医療が進んでいない時代、健康や病を深く理解して、しかも治療にあたることは簡単なことではなかったと思われます。
彼が「すべての病を治すのは自然である」と思うようになったのは、数多くの治療経験とそこから得た洞察力によるものでしょう。
さらに、「薬はその力が及ばないところを助けるのである」と薬の用いる方法を注意するように喚起しているところからは、彼の医療レベルが高かったことがわかります。
しかも、間違った薬の使い方で体調を崩す人がたくさんいたことも想像できます。
彼が活躍した江戸時代中期は、それまで長引いた戦国の世の中から太平の世へと変貌を遂げていました。
まさに高度成長時代の頂点とも言える「安定成長期」に入っていたことになります。
そのことは、民衆にとって「生きることで精一杯」という状態から「我が身や家族の健康を心配する」という状態へと変化し、医療の大衆化が進んだことを意味します。
事実、江戸中期から庶民も医者にかかれる機会をもてるようになりました。
医業を生業とする者が江戸や大阪に現れ、地方の町や村にもたくさん現れたからです。
当時はライセンスのようなものなく、気軽に医者になれました。
そのため、庶民が気安く医療を受けることができるようにあり、健康状態を診てもらえるようになります。このメリットの一方で、落語の「葛根湯医」のようなヤブ医者が多くかったこともわかっています。
それにより、間違った薬を服用することで体調を悪くする危険性もある世の中だったことが想像できます。
さらに「薬づくりが産業化」されるようになったことも、医療の大衆化に拍車をかけました。
「富山の薬売り」でもよく知られている「薬の行商」が全国に広がったことで、売薬が大量に各地で出回るようになりました。
江戸や大阪では薬屋や薬種業が繁昌し、芝居小屋にまで薬のコマーシャルがあらわれるほど。
この様子は、「風邪薬」や「湿布薬」、「目薬」などの宣伝がテレビから流れている現在の状況ととても似ているように思いませんか。
杉田玄白が医術を駆使した時代から時は流れ、高度医療が盛んな時代となり、あらゆる病が治せるようなイメージが現代医学にはあるように感じます。
しかし、どれほど医学が進歩しようとも、「すべての病を治すのは自然である」という真理が変わることはありません。
それゆえ、どれほど優れた新薬が開発されようとも、その医療目的と効能、さらに副作用まで理解し、使用方法を間違わないようにする必要があります。
「薬とは自然の力が及ばないところを助けるために用いる」という言葉の意味を再認識する必要があるように思います。。