「観」十二消息卦

変化の中で、まず身体と自然を観る
前回の「寒露」の記事では、秋が深まり、陽の勢いが少しずつ衰えて陰が増していく季節の変化についてお話ししました。
その中で紹介したのが、十二消息卦の「観」です。
「観」という字を見ると、まず「観察する」「よく見る」という意味を思い浮かべるかもしれません。
しかし、易における「観」は、単に物を見ることではありません。
自然の変化を見つめ、人の状態を見つめ、そして最後には、自分自身のあり方を見つめる。
今回は、十二消息卦における「観」がどのような卦なのか、そして本来の八卦・六十四卦の体系の中で、どのような意味を持っているのかを少し詳しく紹介してみたいと思います。
「観」は六十四卦の第20卦
「観」は、六十四卦の第20卦です。
正式には「風地観(ふうちかん)」といいます。
上に「巽(そん)」、下に「坤(こん)」を置く卦です。
巽は「風」。
坤は「地」。
つまり、
風が地上を吹き渡る姿
が「観」という卦になります。
八卦には、乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌の八つがあります。
それぞれ、
乾=天坤=地震=雷巽=風坎=水離=火艮=山兌=沢
を象徴します。
「観」は、その中の「巽」と「坤」が組み合わされたものです。
ここから、「観」という卦の意味を考えることができます。
巽は「風」であり、「入る」もの
巽は風を表します。
風は一か所に留まりません。
山を越え、野を渡り、隙間から入り込み、広い範囲へ行き渡っていきます。
そのため、巽には「入る」「浸透する」「行き渡る」という意味があります。
一方、下にある坤は「地」です。
大地は、雨も風も植物も人間も、すべてを受け入れます。
坤には「受ける」「従う」「養う」という性質があります。
この二つが組み合わさることで、
風が大地の上を行き渡る
という「観」の姿が生まれます。
風は大地の上を吹きながら、そこにあるものを感じ取っていきます。
この姿が、「観る」という働きにつながっているのです。
「観る」と「見る」は少し違う
私は、この「観」という字を考えるとき、「見る」という言葉とは少し分けて考えた方がよいと思っています。
「見る」とは、目の前にあるものを認識すること。
一方の「観る」は、そこに現れているものだけではなく、その背後にある変化や関係まで見ようとすることです。
例えば、患者さんが「腰が痛い」と訴えたとします。
腰だけを見るのであれば、「腰の痛み」を見ることになります。
しかし東洋医学では、それだけで終わりません。
顔色、声、呼吸、舌、脈、腹、手足、姿勢、動き、睡眠、食欲、排泄、生活環境、季節との関係など、さまざまな情報を合わせて、その人全体の状態を観ていきます。
症状を見るのではなく、
「今、この人の身体全体に何が起こっているのか」
を観る。
この姿勢は、東洋医学の四診や弁証にも通じるものがあります。
「観」は、行動する前の時間
観卦の卦辞には、
「盥而不薦、有孚顒若」
という言葉があります。
身を清めている。
しかし、まだ供物を捧げてはいない。
つまり、行為そのものに入る一歩手前の状態です。
ここに「観」の大切な意味があります。
何かを急いで変えようとするのではなく、まず今の状態を見定める。
何が起こっているのか。
どこに偏りがあるのか。
何が失われているのか。
何がまだ残っているのか。
それを静かに観る。
「観」は、動くことよりも先にある時間なのです。
天地の働きを観る
観卦の「彖伝」には、
「観天之神道,而四時不忒」
という言葉があります。
天の働きを観れば、四季の運行に狂いはない、という意味です。
春には春の働きがあり、夏には夏の働きがある。
秋には秋の働きがあり、冬には冬の働きがある。
自然は、「こう変化しなさい」と言葉で教えるわけではありません。
ただ、季節そのものが変化していく。
それを観ることによって、私たちは自然の法則を知ることができます。
これは二十四節気や七十二候を考える上でも、とても重要な考え方だと思います。
「観」は自然を見るだけではない
観卦には、もう一つ大切な意味があります。
それは、「自分もまた観られている」ということです。
観卦の「大象伝」には、
「風行地上、観。先王以省方、観民設教。」
とあります。
風が地上を行くのが「観」。
昔の王はこれにならって各地を巡り、人々の暮らしを観察し、その土地に応じて教えを設けた、とされています。
先に教えを押しつけるのではありません。
まず、その土地を見る。
そこに暮らす人を見る。
生活を見る。
その上で、その場所にふさわしいものを考える。
これは東洋思想における「そのものをよく観る」という姿勢をよく表しています。
十二消息卦の「観」
ここから、十二消息卦としての「観」を考えてみます。
十二消息卦は、一年の中で陰陽がどのように増え、減っていくのかを卦の変化として表したものです。
流れとして見ると、
復 → 臨 → 泰 → 大壮 → 夬 → 乾 → 姤 → 遯 → 否 → 観 → 剝 → 坤
と進んでいきます。
「観」の直前にあるのが「否」です。
否は、天地の気が交わらず、閉塞していく卦です。
その後に「観」が現れる。
ここが非常に興味深いところです。
閉塞したからといって、すぐに動き始めるわけではありません。
まず、
観る。
今、何が起こっているのかを見定める。
そして、その次に「剝」が来ます。
観 → 剝。
まず観て、その後に剝がれていく。
この順序にも意味があるように思います。
「観」から「剝」へ
「剝」は、ものが一枚ずつ剥がれていくことを表す卦です。
観によって今の状態をよく見れば、これまで身につけていたものの中に、
「もう必要ではないもの」
が見えてくるかもしれません。
余分なものを手放す。
無理をしていたものをやめる。
季節に合わなくなった生活を少しずつ変える。
そうして、陰が深まっていく。
そして最後には「坤」に至り、さらにその先に「復」が待っています。
冬至の「一陽来復」です。
つまり「観」は、単独の卦として見るよりも、
観る → 剝がれる → 坤に至る → 復する
という一年の大きな循環の中で考えると、さらに意味が深くなります。
六爻の中にも「自分を観る」という変化がある
観卦の六爻を見ていくと、観るという働きが次第に深くなっていくことが分かります。
初めは「童観」。
子どものように、まだ浅いところから見る。
次には「闚観」。
覗き見るような見方です。
ところが、さらに深くなると、
「観我生」
という言葉が出てきます。
「我が生を観る」。
つまり、
自分自身の生き方を観る
ということです。
外の世界を見ていたはずなのに、最後には自分自身を見ることになる。
これは「観」という卦の非常に深いところだと思います。
身体を観るということ
東洋医学の治療でも、これは大切なことです。
身体に現れている症状だけを見ていると、症状を取り除くことが治療の目的になりやすくなります。
しかし、その症状が、
「なぜ今、この人に現れているのか」
を観ようとすると、見えてくるものが変わってきます。
季節の変化。
仕事や生活の変化。
睡眠や食事。
精神的な負担。
身体の使い方。
冷えや湿気。
そして、その人自身が本来持っている体質や回復する力。
それらを合わせて観ていく。
だから私は、鍼をする前に、その人の身体をよく観ることを大切にしています。
一本の鍼を使ったら、その身体がどう変化したのかをまた観る。
そして、次の治療を考える。
「観る」ということは、治療の前後を通して続いていくものです。
寒露の季節に「観る」
寒露を迎える頃には、夏の勢いはすでに遠ざかり、秋が深まっていきます。
朝晩の冷えを感じるようになり、空気も少しずつ変わってきます。
この時期は、何かを新しく始めることばかりを考えるより、
「自分の身体が、季節の変化をどう受け取っているのか」
を観てみるのもよいのではないでしょうか。
睡眠は変わっていないか。
食欲はどうか。
身体に冷えはないか。
呼吸は浅くなっていないか。
喉や鼻はどうか。
便通や排尿はどうか。
気持ちは落ち着いているか。
身体は以前より疲れやすくなっていないか。
小さな変化は、病気になるまで待たなければ分からないものではありません。
身体は、その前からさまざまな声を出しています。
その声に気づくためには、まず観ることが必要です。
「観る」ことから養生が始まる
養生というと、「何を食べるか」「どんな運動をするか」「何をすれば健康になるか」といった方法論を考えがちです。
もちろん、それも大切です。
しかし、その前に、
今の自分はどういう状態なのか。
それを知ることが必要です。
夏と同じ生活を秋にも続けてよいとは限りません。
昨日までできたことが、今日は身体にとって負担になることもあります。
だからこそ、身体を固定されたものとして考えるのではなく、季節とともに変化する存在として観る。
これが東洋医学の養生にもつながっていくのだと思います。
「観」は、何かを急いで変える卦ではありません。
まず立ち止まり、自然を観る。
身体を観る。
生活を観る。
そして、自分自身を観る。
その中から、次に何をすればよいのかが自然に見えてくる。
寒露の季節は、そんな「観る」という時間を持つのにふさわしい時期なのかもしれません。
次に訪れる「剝」は、観ることによって見えてきたものが、少しずつ剥がれ落ちていく卦です。
観て、そして手放す。
その先には、冬の「坤」があり、さらにその先には「復――一陽来復」があります。
一年の陰陽の循環を眺めながら、自分の身体もまた、その大きな自然の中にあることを感じてみたいと思います。




コメント