西洋医学の歴史
宗教から医学として独立
紀元前400年ごろ、古代ギリシャの地に、「医学の父」と称されるヒポクラテスが活躍します。
このころのギリシャは、「人の病気は神による怒り」であると信じて疑いませんでした。
それに対して疑問を抱いたヒポクラテスは、カルテを用いて、詳しく患者の症状について記録を残すことを試みます。これによって、風土によって病気の種類があることや、衛生面が健康に重要であること、気候が人体の健康状態に影響を与えることに気づきます。
このことで、ヨーロッパにおいても、病と治療が、宗教的な要素から分離して、医学としてスタートできるようになったとされています。
中国において、宗教的な要素から完全に分離した時代が春秋戦国時代(紀元前700年~)ということが、「周礼」という文献からわかっているので、西洋医学と東洋医学を比較してみると、東洋医学の方が西洋医学よりも300年も早く宗教から分離していたことがわかります。
そしてヒポクラテスも自然現象に目を向けて、気候や風土が人体に与える影響に着目していたことも興味深い点ではないでしょうか。
カルテを用いて、病の推移を克明に記録し、病態を把握しようとしているところも東洋医学と同じように思います。
このように古代において、医療が宗教からの分離独立をし、医学として歩み始めることが容易ではなかったことが伺えます。
解剖学の誕生と発展
ソクラテスの活躍から約500年後、ガレノスがギリシャにて生まれ、ローマにて活躍します。
医学のためには、人の体の構造を詳しく知る必要があります。
ところが人の身体を生きたまま解剖することはできません。そこで彼は動物を生きたまま解剖し、さまざまな実験をして体の働きを調べたようです。
動物実験とそれによって得られた情報を執筆し、解剖学の本を書き上げました。
ガレノスの本は、1500年間にわたってヨーロッパの医学書として愛読されることになります。
人体の内臓ではない解剖図を1500年間使い続けたこともあり、医学の進歩はほとんどありませんでした。
16世紀になって、ヴェサリウス(1514~1564)が人体解剖学書「ファブリカ」を完成させました。
これによってガレノスの神話に終止符がうたれて、西洋医学の解剖学が確立しました。
この時代、ヨーロッパにおいて戦争が多発し、銃や大砲などの殺傷能力の高い武器が本格的に使われたこともあり、多くの負傷者がでました。
止血や消毒を必要とする救急医療が必要とされたのですが、その方法は、熱した鉄で患部を焼くことでした。焼きごてで患部を止血する方法は、治療を受けた者に苦痛を与えることになり、痛みや発熱で苦しませる行為でした。
それを危惧したパレ(1510~1590)が、血管を糸で縛って出血を止める方法を考え出し、古い書物から塗り薬(卵黄・バラ香油・テルビン油)を製造して、傷へと使うようになります。
彼は、過去の荒々しい治療法を習慣的に続けることをやめて、体に負担をかけない治療法を、患者をくわしく観察することによって確立したのです。
このように見てくると、西洋においての医学の進歩は、外科的なことに重点がおかれていたように感じます。
このことは、西洋医学の進む方向性を確定することになり、現代における西洋医学の優位性となっていると思います。
テクノロジーと西洋医学
17世紀に入ると、レーウェンフック(1632~1723)によって、顕微鏡が作られます。これによって、微生物の存在が明らかになりました。
それから200年後、微生物が病気の原因になることが証明されて、この病原体に対するワクチンや薬の発見へと続いていくことになりました。
19世紀のレントゲンによるX線の発見、20世紀のDNAの構造解明など、西洋医学は人体の構造についてより詳しく解析できるようになり、その歩みは今も絶えることなく続いています。
20世紀に、人類は2度の世界大戦を経験することになります。
飛行機や戦車はより多くの人を傷つけ、過酷な戦場は伝染病を蔓延させることになります。
このような時代に求められた医療は、救命救急医療であり、抗生物質による細菌性感染の治療であり、ワクチンによる感染予防だったといえます。
この点において、西洋医学は遺憾なくその役割を果たし、21世紀を迎えた現在も多くの人々の生命を支えています。
このように西洋医学の歴史を見てくると、西洋医学は、人の身体がひとつひとつの部分から成り立ち、その集合体とみてしまう医学であることをわかっていただけるのではないでしょうか。
テクノロジーの進歩は、部分にこだわることをさらに促進させることになっています。
西洋医学は横のつながりを持たない、縦割りの医学であるといえます。